同じ短編集を読んで、弟と感想を言い合っていた。

江國香織の『号泣する準備はできていた』。

 

本の買いどきは出会ったときだと思うけれど、

読みどきは必ずしも買ったときとは限らない、と思っている。

 

この本はもう何年もそばにあったけれど、たぶん、今が一番の読みどきだったろう。

 

弟の部屋から持ち出したので連絡を入れたところ、

彼と感想を言い合うメッセージのやり取りが始まったのだった。

 

 

作者自身はこの12編の物語のことを

かつてあった物たちと、そのあともあり続けなければならない物たちの、短編集

と語っている。

喪失と、それをかかえて生きる人たちの日常。

切なく、あるいはやさしく、続いていく人生。

 


この一冊のなかで気に入ったものはどれか、どんなところが良かったか、

というようなことを、つらつらと送り合う。

 

彼は読後感を重視しているらしく、

物語の先に救いを感じられるものが気に入ったのだそう。


そうして挙げられたいくつかの物語に、私は驚かずにはいられなかった。

その中には、私には到底救いを感じられなかったものが混じっていた。

 

私には「もう救いはない」と感じられた物語に対して、

弟は「救いがある」と感じたという。

もちろん人の感性は違って当然なのだが、

この、どうしようもなさそうな終わりにも、

彼の視点からは光が見えるという事実。衝撃。

 

そしてそれこそが、救いだな、とも。

絶望と喪失だけを思わせる物語にも、

別の視点では、もしかしたら絶望の先があり、救いがあり、光があるのかもしれない。

 

 

成就の裏には喪失があり、輝きの裏でそこなわれるものが必ずある。

それを喪失と取るか幸福と取るか、もちろん人それぞれだけれど、

何もかもを同時に得ることができないのは事実だ。

 

私は、そこなわれたらそれで終わり、と思っている節があったけれど。

人生はそんなに定型的なものでもない、のかも。